――例えば人が何かを忘れることがなかったら、どんな世界になっただろうか。
人は何かを忘れるからこそ生きていける。
悲しみを忘れて、苦しみも忘れて…喜びさえも忘れて、薄れていく過去を鮮烈な今で塗り替えて行くことで自我を保っている。
人はいつまでも一つの感情に支配されては生きていけないから。
人は同時に二つの感情を持てないから。

人は忘れるからこそ生きていける。
けれど、同時に一番恐れていることもまた、忘れることなのだ。



kioku



 手元にある写真を眺めやり、ほう、と息を吐く。
 もう、日課になっているような行動だった。
 そっと指先で写真の中の自分を撫で、次いで順に並んでいる人物を辿っていく。ゆっくりと確かめるように動いていたそれは、ある人物に触れる直前で止まった。
「…ふ」
 もう一度、溜息。
 それから、先程よりもゆっくりとした動きで――愛おしむように――その人物を辿っていく。
 髪、頬、肩、腰、爪先。そこからもう一度髪に戻り、頬を通ってから左目に。
 そっと指先を離すと写真のなかでもわかるほどに大きな傷が目に入った。
 傷。
 左目に走る大きな傷。
 彼の光を奪い、彼の力を奪い――彼の存在を作り出した――傷。

 彼の罰。
 自分の罪。
 自分と彼との絆。
 始まりの場所。

「総士」
 唇から言葉が漏れる。呼び掛ける様に。その名を呼んでも答えが返って来ないことは承知。けれど、心が少し安らいだのを感じた。
 名を呼んでも返って来ない日。一体どれくらいの時間が経ったのか見当もつかない時間を、こうして過ごしている。
 毎日写真を見て、指で辿って、名を呼んで。
 安心を得るために。確認している。
 得られる安堵は確かに本物だ。それでも不安は消えない。不安で不安で仕方がない。だからこんな行為を繰り返して繰り返す。だが、こうして確かめること自体が不安を煽る。その不安を解消するためにまた同じ行為を繰り返している。
 いつまでも終わらないそれは、暗黒へ飲み込まれる終わりのない階段の様だ。
「……」
 コトリ、と軽い音を立てて写真立てを机の上に戻した。ちょっとした本と、スタンドしかない飾り気のなかった机が、少しだけ華やぐ。
 腕を机の上に出し、その上に顎を乗せて、一騎はさっきの写真を眺めやった。明るいスタンドの光を反射して鏡のようになったそれからは、一騎の顔しか見えなかった。
 少し伸びた前髪、赤茶色の瞳。赤茶というよりも、赤に極々近い色。
 日本人としては奇抜な瞳の色。だが、これでも色が落ち着いてきているということを一騎は知っていた。それは一騎だけでなく、少しでも一騎を知っている人ならば誰でも知っている。一時期はもっと鮮やかで…金色に輝いていたこともあったし、濁った赤色をしていたこともあった――らしい。らしい、というのは一騎に限ってのことである。知っていはいても、一騎自身はそれを見ていないからだ。
 当然のことだ。そのとき、一騎は視力の全てを失っていたのだから。
 ちょっと首を上げて、軽くなった腕でもう一度写真立てを持つ。スタンドの光を避けるように少し傾けると、自分の顔が消え、写真が目に入る。
 一見してそれは、水族館の中での集合写真。ただ、そろいそろって皆、白い制服を着ているのが異様だった。
一騎はというと、一騎だけが私服を着ていて一人だけ背景に馴染んでいる。が、ここで異様なのは一騎の方だ。そこは水族館などではなく、軍事施設なのだから。
 そう、軍事施設。竜宮島のもうひとつの顔。アルヴィス。フェストゥムと戦うための。そして、現在は共存するための。
 つらつらと知識のような、記憶のような言葉の羅列が浮かんでは消えてゆく。メモリージング、だったか。一つの単語につられてまた頭に言葉が浮かび上がってくる。メモリージング。小さいときから脳にインプットされた知識。そうとは知らずに動かされてゆく身体。学習行動。それは母のような声で、自分のような声で、時には――彼のような声で語りかけてくる。
 そうだ、彼の声。
 彼。
 皆城総士。
 左目に傷を持つ、ジークフリードシステムの操縦者。一度に多人数の思考を処理できる能力を持った、冷静な人物。天才症候群の一人。ファフナーに乗ることは適わなかった。その左目の傷が脳とファフナーのリンクを妨害する役目をしたから。左の傷は昔真壁一騎につけられたもの。鈴村神社で。フェストゥムのように『ひとつ』になることを望んで拒絶された痕。妹が一人。不器用で、でも一生懸命に自分に向き合ってくれた。最後の最後まで一騎と一緒にいて…フェストゥムの祝福を受け入れていなくなった。必ず帰る、そう言い残して。
 思考を止める。そして、まただ、と思った。
 どこまでが与えられた知識なのか、自分の記憶なのかがわからない。だから不安になる。彼を『知識』として『知っている』だけで、本当は彼のことを忘れているのではないかと。
 それは、例えば…そう、例えば信号機みたいなものだと思う。竜宮島には信号機がない。余りにも島が小さすぎて、必要ないのだ。車さえ滅多に走らないし、交差点もないようなところではあっても意味がない。でも、信号機がどんなものであるか知っている。赤になれば止まり、青になれば進む――そういうことを『知っている』。
 それは記憶していることとは微妙に異なる。些細な様で、だが実際はかなり大きな差だ。
 それと同じなのではないかと思うと不安になる。一騎の中にある『皆城総士』という人間。それは本当に一騎の出合った『皆城総士』なのか?声は?顔は?本当にそれは総士なのか?他人から与えられたものではなく、確かに自分の『皆城総士』なのか?――それに答えることは出来なかった。だから、恐い。
 たが、同じくらいに安心する。知識でも記憶でも何でもいいと思う。彼を覚えていられるならば。『皆城総士』という人間が自分の中にあるならば。まだ、覚えている。『皆城総士』と聞いて、どんな人物だったかを思い浮かべられる。
 でも結局は、と一騎は頭の隅で理解していた。
 こうして毎日写真を眺めていないと不安になるくらいに、彼のことが薄れてきているのだろうと。もう、声も自分の想像の産物以上のものではないだろうと。
 本当に彼のことを覚えているならば、確認するまでもなくそれは思い浮かぶものだろうから。
 写真立てから手を離して、もう一度腕へ顔を突っ伏す。具合のいいところを捜して顔を落ち着けると、丁度窓が見えた。星が小さく煌いている。
 
 空は海の底の色と酷似していた。

 確か、そう、確か、あのときはまだ自分達はぎすぎすしていて――一騎は総士を怖れていたし、総士はそれを甘受していた。まだ彼に圧し掛かる重圧も、この後襲う悲劇もなにもかも知らなかったとき。皆の家に赤紙が届いて、契約書にサインをしたそのすぐ後。訓練をするからとアルヴィスに呼ばれて、その時に写真を撮ったのだ。
撮ったのは遠見。遠見真矢。翔子の親友。そして一騎の理解者。彼女はこれ以降いろいろなところにカメラを持ち歩いていた。どうやら父親の形見――このときまだ彼女の父親は生きていたが――らしかった。
 そうだ、彼女の父親と言えば、彼女の能力の改竄について裁判沙汰が起こったことがあった。結局は皆城乙姫が出てきたことでおじゃんになった、茶番劇のような裁判。
 皆城乙姫。ブリュンヒルデシステムに囚われた彼の妹。彼女の意思は島の意思。フェストゥムに最も近い人間であり、人間にもっとも近いフェストゥム。総士と一騎を繋いでくれたのも彼女だった。ザインの中で見た幻。それは確かに彼女だった。
 ザインの幻。
 一騎は、自分が涙を零していることに今更ながら気が付いた。手で拭うと、後から後からつられるように涙が流れてくる。鼻孔もいつの間にか涙で一杯になっていた。
 それは、彼女と自分しか知らないことだ。総士も知らない、総士。幼かった総士。総士が『総士』になる前の総士。
 覚えている。確かに、自分は覚えている。これはメモリージングにもないこと。自分が経験した、自分が見た記憶。
 忘れてなかった。まだ自分の中に彼はいた。薄れて行く中にも、確かに残っているものがあった。
 今度こそ、安堵が胸を満たした。吐く息は熱く、時折乱れそうになっていたけれど。
 そっと、一騎は呟く。最後に見た、彼の姿に向かって。今も自分の中にいる、彼に、向かって。

「総士、俺はここにいる。お前をずっと待っている。だから――早く帰って来い」



365題用に書いたはずだったのに、どの題からもそれたのでこちらに(苦笑)
待つ身にとってみれば、忘れることが恐い。待たせる見にとってみれば忘れられることが恐いんじゃないかな、と。
時期的には最終回から1〜3年後くらい。


2006.03.18.

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