溜息にも似た笑みを。
ひとつ、零した。
with a sigh
重力から開放された宇宙空間において、自分を縛るものは、感情のみだ。
生を許さない、ただの空間にそれでも人類は進出した。
限りなく広く続く世界に理想郷を夢見ながら。
初めて宇宙に乗り出した彼らはこの空間をどう思ったのだろうか。
この空間で何を垣間見たのか。
未来か。
それとも他の何か?
明るい、希望に満ちたものを彼らは見つめていたに違いない。
彼らはここが戦場になるなどということは夢にも思ってなかったであろう。
だが、それは現実となって今の状況を作っている。
そんなことをつらつらと、窓の外――広い宇宙空間を眺めながら考えていた。
実にくだらない。
あまりにもどうでもいいことだ。
意味がない。
今考えるべきことは先人の希望でも、宇宙空間のことでもない。
今の状況を解説することでももちろんない。
今、自分がここにいるのは、この状況を打破する――なるべく平和的な方向に――ためであり、またそれ以外の何ものでもなかった。
ただ、ここにいるのが自分を含め人間である以上、それ以外の何らかの目的があることも確かだ。
感情というものが常に付きまとう人間にとって、それは至極当然のことであり、むしろないほうがおかしいというものである。
感情や自分の利益に対しての比重が過剰に掛かっている場合は問題だが。
そして、自分がその問題をかかえている。
立場を含めれば後々厄介なことに発展していくことは目に見えているが、それでも、どうしようもないことだ。
そう、どうしようもない。
どうするつもりもないが。
溜息を一つ。
人間同士の係わり合いはたとえ親子であっても難しい。
徹底的に決裂してもなお縛られ続けるカンカクは心の疲労、つまりはストレスとなり積み重なっていく。
捨てきれない感情。
そんなものをいくつも爆弾のように抱えている。
特に大きいのを二つ。
そのうちの一つは、解決するとは思えなかった。
あの人もかわいそうな人なのだ。
道を誤ってしまったが、そこまで彼女が大きい位置を占めていたならば、それはそれで良いことなのかも知れない。
もう一つは。
そう、もうひとつは。
自分で解決していかなければならないだろう。
もう限界に近い風船のようなその感情はカウントダウンを始めている。
その姿を見るたび、その声を聞くたび、苦しさともどかしさ、そして愛しさと憎しみが増していき、それは一度爆発したものの、再びまた新しい爆弾となり心を占めている。
一回破裂したその爆弾は、強度を著しく低下させてそこにある。
ふと傍らに気配を感じて視線を窓から外した。
目に飛び込んでくるのは茶色の髪と紫暗の瞳。
今の自分の心を一番占める、悩みの原因がそこにいた。
全ての感情のベクトルが彼に向かうのを感じる。
あまりの感情の強さに僅かに身じろいだ。
逃げ出したくなる。
「アスラン、どうしたのこんなところで。」
こんなところ、というのはここが廊下だからだろう。
だが、理由があってここにいたわけではない。なんとなく、というのが正しい。
「いや…」
うまく言葉が見つからなくて、そのまま言葉が途切れてしまった。
そんな自分のことを彼はどう思ったのだろうか。
しかし彼はそれ以上追求しようとはせず、窓のほうを向いた。
外は変化のない暗闇が広がっている。
彼は何かに想いを馳せるように、ずっと遠くを見つめている。
当然のことながら自分は彼の視界に入っておらず、それがどうしようもないほどに悔しかった。
自分も同じように窓――正確には窓に移った彼の顔――を見る。
艦内が明るく、同時に外が暗いため鏡のようにはっきりと映っている。
端正な顔は自分の知っているそれよりも大人びていて、その中に隠しきれない幼さが混在している。
ふと窓の向こうの彼と目が合った。僅かに苦笑交じりの、それでも無邪気な笑みを向けられて顔が熱くなるのを感じる。
瞳を逸らすことも叶わずそのまま硬直してしまう。
ふわりと彼の香りがした。
「え…」
視線が外れたことにより呪縛が解ける。
横を向くと触れてしまいそうなほど近くに彼の顔が合った。
僅かに身を引くと、何か暖かいものに身体が包まれた。
一層強く感じる彼の香り。
軽く身体が後ろ向きに流れている。
無重力空間において、運動は保存される。
正面から何らかの力が加えられて、そのまま流れているのだ。
一体何に?それを理解するにはかなりの時間を要して。
彼に抱きしめられているのだと気付いたのはしばらく経ってからだった。
「あ…キ…?」
小さく発した疑問は、そのまま言葉にならずに消えた。
混乱しすぎた頭では質問する言葉すら浮ばない。
彼が自分をどこかに連れて行こうとしているのは分かったが、それだけだった。
シュンとドアが開く音がして、床に足がついた。
一気に両足に体重が掛かる。
バランスを崩しそうになるのを慌てて整えて、いきなりの重力に耐えた。
「あ…ここは…?」
見回すと、自分たちに与えられた部屋と同じようなところだった。
室内が狭いのは、パイロットとは違うものだからか。
使われている形跡はなく、空き部屋のようだった。
一通りぐるっと見てから、正面に立つ男へと目を向ける。
やや低いところにある紫の瞳は、何を考えているか判別しがたい色をしていた。
「ねぇ、アスラン。」
二人しかいないのに、名前を呼んで。
まるで、確かめるように。
その声は今まで聞いたことのないような声で。
しっとりと沈み込むような、その声に何かが身体の奥で反応する。
ぞくりとするほど艶を感じるコエ。
その声が耳元で響く。
ささやかな爆弾となって。
「僕のコト、スキデショ?」
…何を言っている?
そう頭の中で質問が空回りする。
ただ、わかることはこれが確信がある質問であるということだけ。
質問という形をとった、確認。
耳朶を暖かな息が擽る。
言葉を紡ぎだすために動く唇や舌が微かに立てる濡れた音も。
そちらのほうに気が逸れるが、そんなことを許してくれるような彼ではなかった。
小さな笑い声と新しい爆弾を軽く投げてくる。
「気付かないとでも思ったの?いつも僕のこと見てるよね。…ねぇ、スキナンデショ?」
最後の言葉が理解できない。
ただ、小さく抵抗しようとして、それも出来ないことに気がついた。
こんなとき馬鹿正直な自分が嫌になる。
いつだって、肝心なときに嘘がつけない。
とはいえ、頷くのも癪だった。
矛盾している。
早く、気がついて。
そう思っていたのは紛れもない自分なのに。
苦し紛れの返答は、
「嫌いなわけ、ないだろ。」
という、なんとも馬鹿げたものだった。
曖昧な返事。
本当は、そんな曖昧に流せるようなものじゃない。
キラが、思うよりも、ずっと、俺は。
キラは頷くでもない、曖昧な――それこそどうとでも取れるような――音を漏らしてまじまじと顔を見た。
そして。
「本当にそれだけ?僕を、ダキタイトオモッタコトハナイノ?」
「なっ」
フリーズ。
全ての動きが止まる。
呼吸、いや、心臓の動きさえ止まったような気がする。
自分の周りの空間だけが、いつもの通りに流れていく。
憎らしいくらいに。それがまだ予想外の、いや…図星でなかったら。
もっと他に対応が出来たのかもしれなかった。
でも、それは、的を射たもので。
感情――好きとか嫌いとか、愛と恋とか。
そんなものには相手への執着がつきまとう。
執着なしの感情なんて、そんなの嘘だ。
そして、それに伴う暴力。
相手を殴ってやりたいとか。
…抱きたいとか、抱かれたいとか。
大抵の人間はそれを心の奥底に押さえつけて生きてる。
俺も、同様に。
それが突き崩されてしまったら?
…答えは、ひとつだ。
ホンノウノママニコウドウスル。
必死な理性が、それを押しとどめようとして…あっけなく崩れ去る。
彼の、一言で。
「あるんでしょう?…それともアスランはそんなことも出来ないくらいに臆病なの?」
あからさまな嘲笑。
一気に頭に血が上る。
一体何に対して?
それすらわからないまま行動に出て、床の上に彼を押し倒していた。
大きな衝撃が、おそらく彼にはそれ以上の衝撃が襲う。
彼が顔を軽く顰めたのが視界の隅に入った。だがそんなことに構っている余裕なんてない。
獣の様に彼の唇を奪い、青い軍服の前を引きちぎるようにして開く。
いきなりの運動量に苦しくなって、深く口付けていた唇を一旦離す。
つうっと一本糸が伝っていやらしく光った。
周りに音などなく、自分の息切れだけが妙に大きく響いている。
対するキラは――息ひとつ切らさずに静かにこっちを見つめていた。
抵抗もせずに、されるがままになっている。
息が少し落ち着き、次の行動に出ようとしたところで。
その手を掴まれた。
今更、ここで止めろと?煽ったのはお前の方なのに?
今の自分がどんな顔をしているのかはわからない。
軽い疑問符と、軽い嘲笑。
それさえ伝われば、満足というものだが。
掴まれた手を振り解こうと、手を軽く振る。
そのつもりだった。
だが、掴まれた右手は少しも動かなかった。
振り解くどころか、逆に強く掴まれて、その力の強さに無意識に眉を寄せる。
その表情を見て、目の前の男はひどく満足げな顔をした。
唇の端がつり上がり、それがだんだんと苦笑に変わっていく。
「…やぁっぱり駄目か。君に抱いてもらおうと思ったんだけどね。僕が抱くと君にひどいことしちゃいそうだから。」
でもね、と言葉を綴りながら上半身を起こす。
人一人を自分の身体の上に乗せていることなどまるで無視して。
手は掴んだままだ。
彼の上に跨って、そのまま正座しているような格好になっている自分が間抜けに思える。
これでは、自分が彼に抱いてくれと強請っているような格好だ。
自然、小さな焦りが生まれる。
男としての本能が、状況を忌避しようとしているのか。
「君がそんな顔するなんて、反則。まぁ僕が我慢できるわけもないしね。最初っからこんなこと無理だってコトか。うん。」
最後のほうは自分に語りかけるように呟いて、彼はぐいっと顔を近づけてきた。
「君がこういう状況にしたんだから、当然これは合意してるってことだよね?」
そう言い終わるか終わらないかの内に、唇を奪われた。
さっき、自分が彼にした以上の激しさで。
思わず顔を背けようとしたが、こちらのほうにさらに傾いでくる彼のせいで、逃げることも叶わない。
残された左手を突っ張って彼を押し返そうとしたが、意味はなく、さらに押さえつけられるように体重をかけられただけだった。
気がつけばさっきと立場が全く逆転している。
思ったほどの衝撃もなく床に背がついていた。
そこで彼の手が自分の頭に添えられていたことに気がついた。
優しいのか、優しくないのか。
とにかく、かなり分が悪いことだけは確かだ。
さらに、彼に対して状況が状況だっただけに足を開いている格好になっている。
最悪だ。
「合意したも何も、お前がこういう状況になるよう仕向けたんじゃないか!」
唇が離れた瞬間、薄い空気で必死に台詞を搾り出した。
これくらいは言ってやらないと気が済まない。
しかし、彼は一向に気にした様子もない。
「確かに僕は君を煽ったけど、それに乗って行動に移したのは君。」
「屁理屈を言うな!」
「でも、そもそも僕とセックスなんてもの、そういう気がなかったらいくら腹立ったって出来ないでしょ。男とそんなことしたってお互い気持ち悪いだけじゃない。」
「それは…」
言葉に詰まった。
彼に対してこういう感情を持っていたことは紛れもない事実だったから。
抱く、抱かれるはともかく、性行為というものに繋がっていたことは確かだ。
「それともアスランは腹が立ったら誰とでもセックスするわけ?」
「そんなわけないだろう!」
全く、冗談じゃない。
なんで好きでもない男を抱けるのか。
そう叫んでからふと気付く。
…しまった、嵌められた。
男は我が意を得たり、と笑っている。
「じゃあ合意の上でしょ。君は僕のことが好き、僕は君のことが好き。それでいいじゃない。」
紫暗の瞳が輝いて、それに目が奪われる。
彼は今度は優しく、じっくりと味わうように深く口付けてきた。
歯列を割り、絡めるように舌が侵入してくる。
…すき?
誰が誰を?
キラが俺を?
ああ、ならばこの行為も意味のないものではないのか。
何かが胸の中にストンと落ちてきたような気分だった。
そう考えている間にも、彼は口腔内を犯している。
息が苦しくなり、酸素を求めて小さく喘ぐ。
その微妙な動きをした舌を強く吸われて、何かが身体を駆けた。
指先までが強くしびれるカンジ。
このカンジは嫌いじゃない。
酸欠のせいで頭がぼんやりしてくる。
思考が全て曖昧になって、身体を駆ける感覚だけが妙にリアルだった。
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